世間を騒がしている宗教団体についての一考。
個人の信仰について、その対象が何であれ個人が希望と勇気を与えられるとしたら、それは絶対に尊重されるべきです。
しかし、カルト宗教でよく言われている「無理強いな勧誘」「しつこい勧誘」「心理的恐怖の植え付け」「高額な寄付や宗教品購入の強要」「家族からの引き離し」などの行為は極めて憂慮すべき問題で、これは宗教的行為ではなく反社会的な行為というべきです。
しかし、これらの行為も、団体からの強要ではなく個人が自発的に行い、そのことで精神的安定を得る場合もあり、画一的な定義に基づいた批判をしづらい側面もあります。
また、いかなる宗教的な行為も、その行動原理は〝個人が救われる〟ことにあり、行為の程度が救いの明暗を左右する旨の解釈ができる教義があるもの事実です。
しかし本来の宗教は、行為の程度によって救いが決まるのではなく、行為そのものが尊いのであり、この尊い宗教的行為の第一義は〝祈る〟ことにあります。
宗教の教えにある、「人前で祈りを見せたりするのではなく、暗い部屋に入り一人静かに祈りなさい」という言葉が示す通り、宗教的な行為は自分の中に向けて行われるべきことであり、教団や同胞に対し行われるものではありませんし、ましてや、程度の大きさや寄付の多さで救いが確実になるのでは決してありません。
西栄寺とお寺の介護にご縁のあるみなさまにとって、心豊かな尊い祈りによって、穏やかにあられますことを心より念願しております。
カテゴリー: 仏教
にこ盆の法要
今年もにこぽんデイサービスにてにこ盆法要を勤修しました。
感染症対策を徹底したうえでの盆法要は、利用者さま職員ともに、想いの詰まった法要になりました。





にこぼん法要
西栄寺のお盆もなんとか無事に終えることができました。
お盆の最終日、締めの盆法要は「にこぼん法要」です。
お盆の間、ご先祖さまが、皆の様子を伺いにこの世に帰ってこられ、15日には又、極楽浄土のお戻りになられるといわれていますが、17日だともうすでにお戻りになっているのではないかと利用者さまが心配されるといけませんので、「みなさんのご先祖さまには、17日までお戻りの日を伸ばすように頼んでいます!!」と言って、みなさんと大笑いしながら楽しくお勤めをいたしました。
看病僧
日本仏教史のなかで、時に奈良時代は主に「官僧」という僧侶が政治を担う重要なプレイヤーでした。
一方で、民衆のなかに身を置き、その優れたキャラクターで絶大な人気を博した僧侶たちもいました。その代表的な存在が「行基」です。
彼らのような僧侶の中には、厳しい修行に耐え抜いた超人的な験力を基に、加持祈祷によって病苦を癒す「看病僧」が、現代でいう医者として各地で民衆からの信頼を得ていたと、平安初期に編まれた「日本霊異記」では伝えています。
仏教は、生きるための道を示す教えであります。その教えは、生きることの苦悩を滅する具体的な方法を教授しています。これは釈尊が教えを説いて2500年もの間受け継がれてきた普遍性がその事実を証明しています。
医学についていえば、特に現代医療は〝局地的治療〟が目的であり、人間の本性を癒すものではありません。
生きるために大切な〝抜苦与楽〟を施すのが現代の「看病僧」ではないかと考えます。
ダライ・ラマのことば
「人類に関してもっとも驚いていることは、
人は、お金を儲けるために自分の健康を犠牲にし、
健康を取り戻すためにお金を犠牲にする。
そして、将来を不安がって今という瞬間を満喫できません。
結果的に、現在にも将来にも、どこにも生きることができないのです。
人は、あたかも自分が死なない者であるかのように生きています。
そして〝本当に生きる〟という経験をしないまま死んでしまうのです。」
ーダライラマー チベット仏教の最高位で世界的賢者
考えさせられることばです。
不安要素が取り巻くなかでこそ、
わたしたちはしっかりと前を向いて
生きていかなくてはなりません